すでにNEWSでお知らせしている通り、高島越後盆踊り保存会 亀山様から、ご連絡をいただきました。写真は今年の高島越後盆踊りの様子
関東紫雲寺会では、今後どのように対応すべきか、星野副会長(郷土史専門家)のご意見をいただきながら、検討することに致しました。
星野副会長のコメント
小生紫雲寺滞在中に藤塚浜の「盆踊りちどり会」会長魚野正義氏に
遇って小樽の亀山貴央氏が藤塚浜の踊り手たちと交流したがっている
旨を同人に伝えました。
また、8月16日夕方から夜中まで藤塚浜の盆踊りを拝見しました(八幡宮境内にて)。
新潟大学の名誉教授等と一緒に拝見したのですが、「小樽高島越後踊り」と同じ踊り振りで立派なものでした。歌で振りする手と太鼓・笛の伴奏が入る手の二種の振りがあり、後者を“高台寺踊り”と称し、座布団一枚の(せまい処で)手足の振りをする大変複雑な手のものです。
星野副会長のメールで、藤塚浜の踊りと小樽の踊りが「同じもの」との見解を賜りました。
小樽市指定無形民俗文化財
江戸時代からニシン漁の大漁場として知られた高島地区では、本州からの移住や往来が盛んに行われ ました。
特に津軽地方と、新潟県北蒲原郡紫雲寺(現在の新発田市)から多くの移住者が集まり、その土 地の風習が高島に持ち込まれました。
中でも紫雲寺出身者が伝えたた孟蘭盆会(うらぼんえ)の行事は、「越後踊り」「越後盆踊り」と呼ばれ、古平、石狩、 三笠、白老など北海道各地にも広がっていきました。
越後踊りは 17 世紀末頃越後地方で成立した踊り唄に起源があるとされています。高島地区に伝承さ れているものは近代以前に見られた盆踊りの形態を 残しており、囃子方は太鼓・笛のみの伴奏で唄との 掛け合いで行います。唄の歌詞は、労働歌を中心に 民謡・俗曲・恋歌など、約 190 種類採録されていま す。踊りは二つの形態のものを一つの流れとして交 互に行うのが特徴です。
小樽市では、踊りや唄だけではなく、毎年 8 月後 半に高島地区で開催される盆踊りの行事そのものを 「高島越後盆踊りの行事」として、無形民俗文化財 に指定しています。
小樽市公式HP参照
ここで気になるのは、なぜ紫雲寺の人々がいつ頃に何故はるばる北海道に渡ったかです。
以下に今日までに調べた情報を、掲載させていただきます。
北海道開拓と紫雲寺村
背景
1868年、王政復古の号令とともに新政府が樹立し、いわゆる明治維新が成立します。蝦夷の地も北海道と改め、省と同格の中央官庁である北海道開拓使が設置されました。
こうして、北海道を維新後の国力増強に活用しようと、中央主導型の開発とインフラ整備が現在の北海道農業の骨格を築き上げたのでした。
明治19年、北海道庁の設置とともに本格的な開発計画が推し進められると、函館の開進社、帯広の晩成社、札幌の開成社、江別野幌の北越植民社、浦河の赤心社といった会社・結社組織による移住が増えてきます。その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになりました。
困窮する越後地方の農民救済しようと、新潟県で大橋一蔵、関矢孫左衛門らが中心となり、1886(明治19)年に北海道開拓会社であるの北越殖民社が創立されました。1890年(明治23年)北越殖民社の募集に応募して移住したものの数は
511名。
内訳は、古志郡三島郡 135名、魚沼軍 157名、蒲原郡 250名
蒲原郡のうち205名は伊勢丸に乗込み,5月2日新潟港出航、5月5臼小樽入港,北海道炭砿鉄道に乗車し、6日午前6時小樽発,昼前に江別に到着した。
とあります。
しかし、紫雲寺の人々が、何人そこに含まれていたのか、また高島に移住した人たちが何人いたのかは不明です。
今後、更なる調査を行いたいと思います。
五項 合併前の藤塚浜の状況
漁業で暮らしを立てている漁村では、漁獲の多少によって、その生活が左右される。明治十年代末ころ、沿岸のいわし漁が大不漁で、困窮した村民は小林廣左衛門から救助毎を受けたとも伝えられている。
加えて明治十九年(一八八六)六月、一二三戸住宅を焼失する大火災に遭い、村の衰退もはなはだしく、これを機会に以前にも増して北海道方面への出稼ぎ、移住者が続出し、戸数は減る一方であった。
宮崎由美子氏提供
紫雲寺町史に、藤塚浜の盆踊りの歌詞が掲載されているとの連絡をいただきました。
宮崎由美子氏提供
2024年開催 小樽「高島越後盆踊り」
提供 保存会亀山様